2009年07月31日

第十八弾 忠義の武将 趙雲

蜀の中心的武将にして、その生涯をただ「仁政」にささげた男、趙雲(子龍)。公孫サンのもとに義勇兵を率いて配下となり、その後、劉備と行動をともにするようになる。
趙雲には「仁政」と「人倫」というおおきな信念があった。
「仁政」とは、民のために政治をするということ。
「人倫」とは、人としての倫理ということ。
どちらも三国史の時代において軽んじられやすい理念であるが、趙雲はそのどちらをも忠実に守り、三国時代を駆けぬけていった。

趙雲が生まれた土地では、袁紹が力を持っていたため、袁紹の配下になるものが多かった。だが、趙雲は袁紹と対立関係にある公孫サンの配下になるのである。それは、アンチ袁紹であったわけでも、公孫サン贔屓でもなく、公孫サンのほうが趙雲の目指す「仁政」に近い政策をとっていたからである。
このため、公孫サンを頼ってやってきた劉備と会ったとたんに劉備に下りたいと志願している。これは、劉備の目指す政策が趙雲が理想とする「仁政」だったからであった。
袁紹との対立が進むにつれて、「仁政」とは程遠い政策になってきた公孫サンに見切りをつけて趙雲は八年間いずこかに消えてしまう。
八年後、趙雲が現れたのは、曹操に追われ袁紹のもとに身を寄せていた劉備のもとであった。そのころの劉備は、関羽を曹操にとらわれ、張飛とも合流を果たせておらず、趙雲がやってきたのを大変よろこんだとされている。
このことがあって、劉備は関羽と張飛と同じぐらいの信頼関係を趙雲との間に築くのである。

荊州攻略の前哨戦として、南部四郡を攻め入ったときのことである。趙雲は桂陽攻めを命じられ、桂陽の太守である趙範を降伏させる。
二人は、同じ姓なのもそうだが、同い年で出身地まで同じであった。二人は互いに打ち解けあい、義兄弟の契りを結んだ。
趙範はさらに趙雲に、死んだ兄の元妻との縁談を持ちかける。
その女は、とても美人だった。この時代の武将であれば誰もが大喜びするような話。
だが、趙雲は違った。
趙範の兄はもちろん趙雲と同姓にあたり、趙範と義兄弟になった趙雲にとっても趙範の兄は兄にあたる。
兄の元妻を自分のものにするのは「人倫」に反すると、趙範を殴り飛ばしたのだった。
その後、趙範は再度反旗を翻すが、趙雲によって鎮圧されている。
のちに、劉備が間をとりもってやるから婚姻したらどうだと薦めているが、「天下には女がたくさんいるので、無理に婚姻する必要はありません」と辞退している。
後年、趙雲が死んだ時、諸葛亮にその知らせをもたらしたのは趙雲の二人の息子であったとされている。が、趙雲が結婚したという記述はなく、養子ではないかという説がある。

趙雲といえば、長坂で劉備の息子である阿斗(後の劉禅)を救出する話が有名である。一騎で曹操軍に突っ込み、阿斗を胸に抱きながら劉備のもとに生還している。これは趙雲の武勇を語る上ではずせないエピソードであるが、実は趙雲はもう一度阿斗を救出している。
それは、劉備の妻である孫夫人が、呉へと帰るように言われた時。孫夫人は阿斗をつれて呉へと向かうのである。
それを趙雲が追い、阿斗を何とか救出したのであった。

蜀の五虎将軍。関羽・張飛・馬超・黄忠・趙雲を蜀の中心的な武将として任命したことになっている。だが、それは「演義」での話しで「正史」では五虎将軍という記述はでてこない。
さらに言えば、この五人を同列におくのは正しいとは言いがたい。
関羽・張飛・馬超の三人は同格で、太守と爵位を持っていた。
劉備と義兄弟である関羽・張飛は劉備と苦楽をともにしたため重用されていたし、馬超はもともと涼州を治めていた、いわば本来劉備と同格にあたる人物だったが、劉備の元にくだったためにこのような地位となっている。
三人のしたにくるのが、黄忠である。太守でこそなかったが、爵位がある。
さらにそのしたにくるのが趙雲であった。趙雲には死ぬまで爵位が与えられることはなかった。
このことに関羽は憤慨している。趙雲はよくやっているのに認められず、黄忠というただの老人を重用するのはおかしいと。
しかし、趙雲は爵位が与えらないとか、太守にしてもらえないとかで蜀を抜けるようなことはせず、死ぬまで蜀の武将として使えたのであった。

まことに、自分の信念を貫く、いうなれば一本筋の通った、男気あふれる男である。
posted by 奈良健太郎 at 09:43| Comment(50) | 蜀 武将 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月19日

第十七弾 熱き小覇王 孫策

偉大なる父、孫堅が不運の死をとげ、袁術のもとに身を寄せていたが、若干二十歳にして挙兵し、五年後に暗殺されるまで、戦乱の世を駆けぬけた孫策(伯符)。孫堅が築き上げた孫家の名声と、孫呉の礎となる、江東・江南といった地域をたった二年で制圧した戦術と行動力。まさに、「小覇王」と呼ばれるにふさわしい男である。

孫策といえば、太史慈との一騎撃ちのエピソードだろう。
当時、太史慈の豪傑ぶりは各地に知れ渡るほどであった。そんな太史慈との一騎撃ち。お互いに一歩も譲らず、何合も打ち合い、烈火のごとく打ち下ろされる攻撃をかわす。
そして、引き分けという形でその場は終結する。
その後、太史慈がつかえていた劉ヨウが孫策から敗走しても、太史慈は独自で兵をまとめ抵抗。だが、太史慈は孫策軍に捕らえられてしまう。
孫策は、縄をかけられてつれてこられた太史慈の縄を解いてやる。これは、一騎撃ちの上で太史慈の力を知って認めていたからで、その場で折衡中郎将という役職を与えている。
劉ヨウの病死が伝わると、太史慈は残兵をまとめてくるといって孫策のもとをたつ。部下達が、太史慈が戻ってくるはずがないと、反対したが孫策は太史慈を信じ、出て行かせた。
太史慈はその後、約束どおり孫策のもとに兵をつれてもどってきた。
一騎撃ちから、互いの武勇を認め、尊敬しあう。なんとも熱い話である。
そもそも、一騎撃ちというのは武将の武勇を強く印象付けるために「演義」で創作されたものが多い。そんななか、このエピソードは「正史」の中にも登場する珍しいものだ。

孫策は独特な兵の使い方をした。
自陣すら空にしてしまうほどの、徹底した兵力の集中運用。
敵に迎撃の準備をさせないほどの電撃的な機動力。
どちらも後漢の戦においてはかなりマイノリティーな戦方法である。
当時は、相手の勢力をより多い兵力でもってじわじわと包囲するものが主流。
それは、当時の指揮系統に問題があったためだ。
当時の兵は各豪族の私兵がほとんど、つまり群雄達は豪族に大まかな命令をしておいて、豪族達がその命令に従って考えて動くというのがほとんど。
つまり、国と県との関係に似ている。国が大まかな方針を決め、県はその方針の範囲で自由に行動する。そういう感じと考えて問題ない。
だが、孫策、それに曹操は指揮系統に大きな革命を起こしたのだ。
曹操も孫策と似たような戦略を得意としている。
これは、指揮系統がすべて曹操に集約されていたことに起因する。
豪族の私兵とは別に、曹操には太平道の残党を吸収した青州兵という直轄部隊がいた。孫策には、そういった直轄部隊の代わりに持ち前のカリスマ性という武器があったのだ。孫策のカリスマ性にはおのずと人が集まり、直轄部隊に似た指揮系統が作り上げられていったわけである。
これによって、バラバラの指揮系統で動く部隊を、次々に打ち破っていくことになるのだ。

孫策が成功したカギ、カリスマ性と優秀な軍師・周瑜の存在。さらに、袁術という後ろ盾を使いながらの根拠地の奪取と、根拠地奪取後に袁術とすぐに絶縁できたこと。 など、上げだしたらキリがない。
孫策が失敗した唯一のことは、早くにその命を落としてしまったことだ。
周瑜の項でも触れた、皇帝を孫呉に迎え入れることができていたならば、後漢の次の時代は三国時代ではなく、呉になっていたかもしれない。
posted by 奈良健太郎 at 22:08| Comment(8) | 呉 武将 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月15日

第十六弾 名家のプライド 袁紹

四代にわたり三公、司徒(行政担当)司空(軍事担当)大尉(監査・政策立案)を輩出した名家、袁氏。そんな名家出身で、後漢末期の動乱の中心にいた男、袁紹(本初)。
袁という姓のおかげで、周りに絶大なる影響を持ち、一時は最大勢力にまでのし上がった袁紹であったが、時代が生んだ化け物、曹操という悪鬼の存在が袁紹の運命を狂わせて行く。

後漢というのは、皇帝の身の回りの世話を取り仕切る宦官と、皇帝の奥さんの親族である外威との間で争いが絶えない時代であった。
幼い皇帝が即位する→奥さんをもらう→外威が皇帝に圧力を加える→皇帝が宦官と共にクーデター→幼い皇帝が即位する。という、負の無限ループが百年近く続き、政治がろくに行われてこなかったのである。
三国志の物語も、このループの中から始まるわけだ。
政治がろくに行われないことで庶民達のストレスがたまり、ストレスのはけ口として、太平道(黄布党)に入信するものが続出。太平道は宦官や官僚と共にいっせいに蜂起し、国家転覆を図っていた。
だが、裏切りなどがあり、宮中でのクーデターが失敗に終わる。のだが、太平道は単独で蜂起。各地で一揆は盛り上がりを見せ始めるのだ。
それを鎮圧するために、何将軍という人物が立てられ、後に三国志の舞台で舞い躍る役者達が次々に旗揚げしていくのである。
袁紹は、何将軍と親交があり、太平道鎮圧後、宮中にのさばり続ける宦官を排除するように進言している。
これは、何将軍の妹が皇帝の嫁で、何将軍が外威であったこと。また、妹の子供が皇帝に即位したものだから、権力を握ろうとたくらむ宦官を排除したほうがいいという判断のもと。
何将軍は袁紹を初め各地の群雄を集めて、宦官を滅亡させる計画を練るがあっさりばれて、暗殺されてしまう。
何将軍を後ろ盾に力をつけてきていた袁紹は焦り、いとこの袁術等とともに宦官を皆殺しにするのだ。
その混乱のさなか、董卓が皇帝を保護していしまい、時代は董卓へと流れていく。

董卓の悪政を排除するために、反董卓連合が結成されるわけだが、その総大将として担がれるのが袁紹である。
反董卓連合での戦功のほとんどが袁術の配下であった孫堅のものだったこともあり、董卓が長安に逃げた後は、各地の群雄が袁紹か袁術どちらかと同盟を結び、まるで冷戦時代の西と東のように対立を深めていく。
袁紹は董卓が擁立した献帝に対抗するべく、新たな皇帝を擁立しようと画策するが、袁術と同盟を結んでいた公孫サンがそれに強く反対、擁立しようとしていた新皇帝を殺害してしまうのである。
それがきっかけで公孫サンとの戦が始まり、192年から199年にかけての長い戦を勝ち抜いて、河北四州を治める一大勢力へと成長するのである。

その後、同盟関係にあった曹操と対立を深めることになる。
河南一帯を治める曹操と、河北四州を治める袁紹。
まさに、事実上の天下分け目の戦い。官渡の戦いである。
結果こそ、曹操の勝利ということで決着しているが、戦全体で見れば袁紹が押していた。さらに、この戦によって曹操と袁紹の戦力差が入れ替わったといわれることが多いが、それは大きな間違いで、戦後に起こった袁紹に対する反乱を袁紹はことごとく鎮圧。
曹操も追撃していないことから、袁紹軍のほうがまだ力があったといえる。

袁紹の失敗は、明確な後継者を選ばずに死んでしまったことだ。
後継者争いをしている間に、曹操によって袁氏は滅亡させられてしまうのだ。
後継者争いさえなければ、もしかしたら曹操をしのぐ勢力として歴史にその名を刻めたのかもしれない。
posted by 奈良健太郎 at 09:21| Comment(6) | 群雄 武将 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。